中国赴任を決意

 数年前、私は某時計メーカの工場で働いていました。業務は新製品のプロモート役、Q(品質)、C(コスト)、D(納期)を管理しながら新製品を形にしていく仕事です。関係部門が多く、設計変更があると部品製造部門や組み立て部門と日程を調整して納期をいかに守るかで四苦八苦しました。
そんな私が中国の工場に出向することになりました。
 中国の工場ではケーシングだけしかしていませんでした。ケーシングとは日本で作ったムーブメント(駆動部)に文字板・針・電池をつけてケースにいれて完成品にする作業の事です。そんなところで回路実装からデジタル時計を生産をすることになりました。
何でも新しい事をやるというのは大変な事です。ましてや、海外です。
 私の前に数人に声をかけたのでしょう。私には中国に行く1ヶ月前に最初の話があり、正式に決定したのは2週間前です。ですから、仕事の引継ぎ、中国赴任の荷物の準備で中国語(広東語)の勉強も6時間しかできませんでした。十分な準備もできないまま中国に行くことになりました。
急な話で、しかも普通の日本人が行きたがらない中国です。それなのに、私が中国赴任を引き受けたのには理由があります。
 日本の工場ではコストダウンのために絞った雑巾をまた絞るような努力をしています。時計産業は習熟産業です。ですから、コストダウンのネタも尽きてきます。赤字つづきの会社は3年ほど前からスタッフ削減を始めました。最初は20%のスタッフが製造現場に異動になりました。私が中国に赴任する頃には50%のスタッフが製造現場に異動になりました。最初の20%のスタッフが削減された時には、仕事があまりできない人から削減しますので、1時間程度の残業で済みました。しかし、50%ものスタッフが削減されると普通に仕事ができる人まで削減されてしまします。毎日4時間の残業が普通になり、残業手当も付きません。何よりも個々のスタッフが余裕がなくなり、助け合いがなくなる。そんな会社が息苦しく感じていました。会社がいつまでもつかわかりません。新しい仕事を探すには年を取っています。私にとっては中国赴任手当ては魅力的でした。赴任手当てを貯金して、会社に万が一があっても生きていける。妻はあと1ヶ月で1歳の赤ちゃんを抱えていました、4番目の子供です。でも、将来を考えると多少の犠牲はやむおえないと考えました。
 また、その頃中国の工場には私が組み立て部門の技術スタッフだった時の係長がいました。このもと上司は決して逃げない人でした。だから、私は安心して仕事に打ち込む事ができました。そして、組み立て黄金時代を築けたと自負しています。もしかしたら、中国でまた黄金時代を築けるかなとちょっと期待がありました。
 日本に比べれば中国は危険な所です。単身で中国に赴任しました。

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